本当の復興には時間がかかる。まだ結論を出すには早い。

MSN ニュースより

是非は子供の世代が評価する 恥ずかしくない選択をするだけだ
2012.3.28 22:05

 《避難者であれば何でも許されるわけではない。避難先地域の一員としての義務とルールがある》

 東京電力福島第1原発事故で福島県郡山市に全村避難した川内村の遠藤雄幸(ゆうこう)村長(57)は自身のブログにこう書き込んだことがある。村には郡山市の女性から「避難者の過剰な被害者意識が迷惑だ」との声が届いていた。被災者側の首長が、自身らへの批判に率直に向き合ったのは異例ともいえる。

 帰村を前に村が開いた住民説明会では、政府の警戒区域見直しで村が2区域に再編されることについて、住民が村側に「村は分断を許す気か」などと語気強く迫る場面もあった。遠藤村長は丁寧に対応。すると鋭かった住民らの舌鋒(ぜっぽう)は次第に弱まり、最後は多くの住民が村長の説明にうなずきながら、耳を傾けるようになっていた。

 村民の河原敬二(よしつぐ)さん(81)は「腰が低く、何でも話を聞いてくれる村長」と評価する。こうした指導力が早い時期の復興ビジョンの策定や除染実施に結びついてきたといえる。





 教師になるのが夢だった。福島大教育学部を卒業したが、父親が村長だったこともあり、夢を諦め政治の道に。平成16年、49歳で村長に初当選した。原発事故前には「村からノーベル賞を」と村内唯一の学習塾を始めるなど、教育者の熱意は捨てなかった。

 昨秋には旧ソ連・チェルノブイリを視察。消滅した村々の名前が掲げられているのを目にし、「川内村をチェルノブイリのようにはしたくない」。早期帰還を目指したのはその表れでもあった。

 ただ、1月の帰村宣言や講演活動、国や自治体との協議などに奔走する中で、ずっと一つのことを自問自答してきたという。

 「果たして全村避難は本当に必要だったのか」

 原発事故で村は一部が「避難指示区域」(当時)に指定されたが、村中心部は「屋内退避区域」(同)で避難の義務はなかった。全村避難は独断だった。

 避難のストレスで亡くなる村民もいた。それでも「事故当初に情報が全くない中、村民を守るための全村避難の決断は、ベストではなくともベターだったはずだ」と信じている。





 全村避難で村の産業や教育基盤が崩れたことに不満を口にする住民もいる。除染も不完全で、「帰村は時期尚早だ」との声もある。

 川内村と同様に中心部が屋内退避区域に指定された南相馬市では、避難を住民判断に任せた。桜井勝延市長(56)は「全住民避難を行っていれば、今の復興のスピード感はなかっただろう」と話す。

 事実、同市の原町商工会の調査に回答した524社のうち再開していないのは50社のみ。一方、川内村では93社のうち63社に上る。

 平成12年の噴火で4年半にわたる全島避難を経験した三宅島住民で「減災・復興支援機構」の宮下加奈専務理事(42)も「全島避難には火山ガスなどを心配せずに済むメリットもあったが、地域社会や産業崩壊などデメリットの方が大きかった」と指摘する。

 それでも遠藤村長は「全村避難の是非は子供の世代が評価する。われわれは子供たちに恥ずかしくない選択をするだけだ」とし、全寮制の高校の設立や作業員宿舎の建設などを通じ、村に活力を取り戻していく青写真を描く。

 「出発なくして到達なし」という信念の下、故郷再生を目指す川内村。その道のりは平坦(へいたん)ではないが、一歩目をしっかりと踏み出した。 (小野田雄一)





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by silverfountain | 2012-03-29 08:17 | 再生・サステイナビリティ
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